メットライフ生命「#老後を変える」編集部 2018.6.1この記事の所要時間:約6分

ドラマでも話題になっている西郷隆盛(以下、西郷)。倒幕を成し遂げた藩として知られる薩長土肥(さっちょうとひ 薩摩=鹿児島県、長州=山口県、土佐=高知県、肥前=佐賀県)に登場する英雄たちの中でも、よく知られている人物です。

 

西郷隆盛

 

時の権力者に逆らったとされて流刑に処されたり、大けがや大病に悩まされたり、大義のために命をささげようと自殺未遂などもしています。考えの違いから、同じ薩摩出身でかつての同盟だった大久保利通らと、西南戦争で戦い、49歳の時に敗れて自ら命を絶つまで、思い悩み、けがや病気を乗り越えて生き続けたからこそ、西郷は明治維新の大業を成し遂げることができたのです。

西郷の倒幕までの苦労と、それを克服した生き方を通して、現代を生きる私たちの生き方についてあらためて考えてみましょう。

少年期、けんかの仲裁で剣を握れない体に

文政10年12月7日(1828年1月23日)生まれの西郷は12~13歳の頃、けんかを仲裁しようとした際、当事者が抜いた刀によって右肘を切られる事故に遭ったそうです。一命は取り留めるものの、この影響から剣術を十分に学ぶことができなくなってしまったのです。

武家の子どもとして生まれた西郷でしたが、1841年の元服(※)前に、武士として生きることを諦めなければなりませんでした。しかし西郷はその逆境の中、学問で身を立てることを試みます。そのかいがあったのか、18歳(1844年)の頃には郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)という事務方の役職に任命されています。

30代前半、政治的な苦労の末に、自殺未遂、そして生還へ

1853年にペリーが来航して開国を迫るなか、当時の十二代将軍、徳川家慶(いえよし)が亡くなりました。十三代家定(いえさだ)は病弱であったため、非常時に国を導くのにふさわしい将軍として誰を推すか、さまざまな働きかけが起こっていました。

そのころ西郷は、先進的な海外の技術や思想でも西郷に多大な影響を与えた藩主・島津斉彬(しまづ なりあきら 以下、斉彬)に従って江戸に行き、オランダの医学を学んだ橋本左内(はしもと さない 以下、橋本)に出会います。まさに役者がそろう真っただ中にいたといえます。そして、斉彬が藩主のころは薩摩藩も、西郷と京都清水寺成就院の僧侶であった月照(げっしょう)を通して、将軍の後継者問題で朝廷に働きかけていたのです。

そして33歳(1858年)の時に、またしても大きな逆境にぶつかります。当時の江戸幕府で大老を務めていた井伊直弼(いい なおすけ 以下、井伊)が、日米修好通商条約調印と将軍徳川家定の後継者問題で幕府と意見を異にする公家、大名、志士など約100名を罰した、「安政の大獄」です。この時、西郷のいた薩摩でも斉彬が亡くなっています。ずっと斉彬に仕えていた西郷は、実権が斉彬の父の島津斉興(しまづ なりおき)と斉彬の異母兄である嶋津久光(ひさみつ 以下、久光)に移ると、折り合いがうまくつかず政治的に苦労することになります。

このとき西郷と共に活動していた月照も将軍の後継者問題で敗れた側であったため、幕府から睨まれる存在となってしまいました。久光の時代になり月照を幕府からかくまったものの、持て余した薩摩藩は月照の藩外追放を決断し、西郷に月照の日向への追放を命じます。しかし活動を共にした月照を見捨てられず、悩んだ挙句月照と共に入水自殺を図るのです。幸か不幸かそこで月照は亡くなり、西郷は九死に一生を得ます。

30代中盤、過酷な島流しの日々を生き抜く

月照の日向追放という、藩の命令に違反した西郷は藩命により、名前を変え島流しとなり、奄美大島で隠れ忍ぶ生活を強いられます。流刑の間は子どもに学問を教えたり、島の女性と幸せな家庭を築いたり、島の人々になじんでいたようです。また当時の奄美大島には家人(やんちゅ)制度と呼ばれる労働搾取があったとされ、島の農民が年貢を納める際に不足した黒糖を裕福な自作農家(富農)から借りると、翌年には5倍の量を返済しなければならず、事実上一生富農の奴隷として奉公しなければならなかったそうです。西郷はこの家人制度の廃止を目指し奔走したといわれ、地元の民の生活向上に尽くす姿が、現在でも当時のゆかりの地で伝えられています。

奄美大島での生活は31歳~35歳(1859~1862年)になるころまで続きましたが、この間に安政の大獄で橋本などかつて政局を語り合った盟友が処刑され、また1860年には安政の大獄を起こした井伊が桜田門外の変で暗殺されています。無念さをかみしめながら、いかなる場所に住んでも国を良くしようという情熱を燃やし続けていたようです。

 

桜田門外の変 桜田門外の変

 

幕末の江戸・京都では大小さまざまな事件が起こっています。優秀な人材はどこの藩でも切望されており、かつて京都において将軍の後継者問題などで各方面に働きかけた経験もある西郷は、一旦表舞台に戻ります。しかし久光を侮辱する命令違反をするなどして、36歳(1862年)で今度は徳之島・沖之永良部島へ送られてしまいます。

当初、木の格子だけで四方を囲まれた吹きさらしの牢で、西郷は座禅を組んでいたといいます。この牢での生活で日に日にやせ衰えていき、その姿に日々心を痛めていた島の役人、土持政照(つちもち まさてる)が代官に請願し、西郷は室内の座敷牢に移ります。しかし先述の吹きさらしの牢の住環境の悪さがたたり、足腰をとても弱めてしまいました。その後、前の藩主・島津斉彬の墓所へ参詣がゆるされた際には、這うように向かったともいわれています。

1862年は、薩摩藩に存亡の危機が訪れたときでもあります。神奈川県で起こった「生麦事件」です。薩摩藩の大名行列の前をイギリス人4名が横切ったため、その無礼に怒った薩摩藩士がイギリス人を惨殺してしまったのです。これが火種となって、日本の中の一国である薩摩藩とイギリスの間で1863年、薩英戦争(さつえいせんそう)が起こってしまいます。

薩英戦争後に和平が結ばれると、一転して薩摩が倒幕のための武器をそろえるのをイギリスが支援します。1864年、38歳のときに西郷は赦免され、再び復帰。当時、病気がちだった久光が率いる薩摩藩を離れ、独自の倒幕軍を起こします。これを皮切りに、鳥羽伏見の戦いを起こしたり、勝海舟との対談で江戸城を無血開城したりなど、文字通り倒幕・明治新政府樹立の立役者として活躍することになります。

40代、ダイエットのために犬を連れて山歩き

西郷が41歳(1867年)の時に大政奉還が行われ、翌年1868年が明治元年となります。新政府で参議になってからの西郷はデスクワーク中心のライフスタイルとなり、史料の軍服から身長が約180センチ、体重も100キロを超えていたと推定されています。仮に体重を100キロとした場合で計算すると、BMI値は30.86でかなりの肥満体型。そこで、明治天皇がドイツから呼び寄せた侍医、テオドール・ホフマンは、おそらく太りすぎを原因とする体調不良を訴える西郷のためにダイエットのメニューを組みます。カロリー消費のため、犬を連れて山へウサギ狩りに行くようになったといいます。実は、その姿があの上野恩賜公園にある有名なあの銅像となっているといわれています。

長い苦難の時代を乗り越え、後世にも語り継がれる功績を残した西郷ですが、その功績は肉体面での不調を乗り越えて成し遂げたものでした。明治維新直後の西郷は、体調悪化のため長期間温泉に滞在した記録も残っています。

倒幕のための戦争では2年近く陣頭指揮を執り、薩摩に帰れば藩主とのあつれきは残り、この間に実弟や頼りにしていた部下をも失っています。ストレスも大きかったと思われ、下痢・下血にも悩まされていたそうです。温泉療養中には知人への手紙の中で、発熱、腫物、腹痛など様々な症状を訴えています。

その後も西郷は、廃藩置県を主導して薩摩藩とのあつれきが深まったり、朝鮮との国交回復問題で維新の同盟者だった大久保利通(おおくぼ としみち)や岩倉具視(いわくら ともみ)らと対立して地位を退いたりと、ストレスの多い局面を迎えます。その後、西南戦争(1877年)に入り、49歳で鹿児島の城山で自ら命を絶つことになるのです。

あなたは普段から体に気を使っていますか?

西郷は二度も流刑にされたことや、籍を置く薩摩藩とのあつれきを含む数々の困難を乗り越えて、ストレスに耐え、時には長期の温泉治療をしながら新しい世の中を作りだしました。過酷な外的要因の影響を受けながら、耐えるべきところは耐え、休むべきところは休み、なんとか乗り切って西南戦争までの人生を全うしたのです。

人生を全うするために、また大事を成し遂げるために、私たちはどのくらい心身のメンテナンスを行うことができているでしょうか。果たすべき自分の役割を果たすことと、休むことの切り替えを適切に行えているでしょうか。

西郷の偉業の部分だけでなく、彼がどのような心身のメンテナンスを行なってきたかにも着目して私たち自身の学びとしてみてはいかがでしょうか。

参考:ミネルヴァ日本評伝選 西郷隆盛(家近良樹著)

※ 成人になったことを示す儀式

 

 

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Posted: June 1, 2018